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KANO 1931年海の向こうの甲子園

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   2020/06/02

衛藤賢史のシネマ教室

1931年、日本統治時代の台湾から甲子園に出場した嘉義農林が決勝まで進出する快挙をなした。ユニフォームの胸につけられた[KANO]のマークは、日本中に一躍知れわたったのだ!嘉義農林学校は台湾中部にある、農林を学ぶため秀才が集う名門校であり野球をするなど遊びと思われた弱小チームで、台湾でも勝てないチームだったがある熱血教師が赴任してから力をつけ、台湾代表として初出場しアレヨアレヨという間に勝ち進み決勝まで進出していったのだ。この作品は、この歴史的快挙をベースにして当時の台湾の状況を織り混ぜながら描いていく内容となっている。

1929年、愛媛の松山商業野球部監督をしていた近藤兵太郎(永瀬正敏)が嘉義農林に妻(坂井真紀)を伴い赴任してきた。ある事情から野球を離れた近藤は見るともなしに、野球部の練習ぶりを見ていた。農林の学習に重きを置く野球部の練習ぶりは近藤から見るとお遊びにしか見えない。だが投手の漢族で秀才の呉(ツァオ・ヨウニン)の荒けずりだが才能ある投球ぶりに血が騒ぎはじめる。それを察した妻の励ましで近藤は野球部の監督を引き受ける。実は台湾中部は水はけが悪く農業に適した土地ではなかったのを、日本は優秀な農業技師を多数派遣し、見違えるような農作の土地に改良していたのだ。中でも八田興一(大沢たかお)の水利技量によって台湾中部は台湾最大の農耕地帯になっていた。その農林の最高の学校として嘉義農林学校が設立されていたのだ。そんな学校で近藤は本気で甲子園出場を狙いはじめた。呉を中心に日本人・漢族・台湾族の長所を生かした戦法はめきめき頭角を現し、31年ついに台湾で優勝し甲子園に駒を進めた。札幌商・小倉工を破る大番狂わせの末、決勝に進出したKANOは中京商と戦うことになる。さすがにエースの呉も疲労が見える中、決勝戦がはじまるが・・・・。

日本統治時代の台湾の状況を丁寧に描きながら、夢・希望・意欲に燃える若者たちの姿を通して紡いでいくこの作品は、戦後あまり語られない日本と台湾の歴史を現代の日本人に改めて知らしめてくれる内容となっているのだ!ファーストシーンで戦地に赴くため台湾に来てKANOとの思い出をしのぶ日本人選手の姿の意味を、ぼくはかみしめながら見た作品でした!
ぼくの星印は、5ッさしあげたい作品でした。

5点満点中5点

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